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多くの人は、なぜキリスト教の宣教師であり牧師でもある人物が、特に昨今のイスラームとムスリムに対する好ましくない風潮の中で、イスラームに転向してしまったのか、私に聞いてきます。彼らの一部はただ単純に好奇心から、そしてまた一部は私のイスラームへの改宗に対する強い嫌悪感から、そうします。また彼らは、なぜ私がイエスに背いたのか、そして私が精霊を本当に理解していたのか、または私が自らを「新生」したと見なしているのかどうか、あるいは全く救済すらされていなかったのかと聞いてきます。これらの質問には、この投稿の最後で答えています。そしてまずは、私のつまらない話に興味を持ってくれている皆さんに感謝したいと思います。





ある一人のとても丁寧なキリスト教徒の男性が、なぜ私がキリスト教を棄ててイスラームに入信したのかとEメールで質問してきました。この投稿は、私が彼に宛てたものに編集を加えたものです。





はじめに


私の今の名前はユースフ・エステスですが、かつて人々はスキップと呼んでいました。まだ少年だった1950年代から、私はキリスト教を宣教しつつ、エンタメ・ビジネスと音楽業界で働いていました。私は父と音楽店、テレビ・ラジオ番組、野外プログラムなどを立ち上げました。私はミュージシャンの牧師で、ポニーに乗った「おどけ者のスキッピー」として子供たちを楽しませていました。





かつて、私は宗教指導者のための国連和平会議に代表者として出席したことがあります。現在は、ワシントンDCにある連邦刑務所局のムスリム宣教職を引退後、ムスリム学生、青年団体、ムスリム児童のための学校などによって構成される、多くの米国人ムスリムと活動をしています。そのため私は世界中を旅し、クルアーンの中にある、イスラームにおけるキリストの教えを説いて回っています。私たちはすべての宗教と意見交換や討議会の機会を設け、あちこちのラビ、牧師、宣教師、司祭たちと協力しています。また私たちは組織、軍隊、大学、牢獄などでも活動しています。私たちの目標は、ムスリムがあるべき正しいイスラームの教えを教育し、伝播することです。イスラームは世界宗教として、信者の数ではキリスト教と肩を並べるほどに成長しましたが、「平和、降伏、神への従順」の教えを正しく理解・体現出来ていない多くのムスリムたちが、イスラームを持ち出しているのを目にします。





すみません、少し話が飛躍してしまったようです。キリスト教の一部の問題について解明しようとする一方で、私が経験した物事を同じように経験した人たちにとって役立つかも知れないと思い、私たちの活動についての背景を少し説明したいと思ったのです。





それは、いかにして起きたか


私たちは神、イエス、預言者性、罪、救済についていくつかの異なる観点を持っているるため、これは奇妙に思えるかも知れません。しかし、私は多くの人々と同じ境遇を共にしていたのです。そのことについて説明しましょう。





私はアメリカ中西部の、非常に敬虔なキリスト教徒の家庭に生まれました。私の家族、そして先祖は、この土地に教会や学校を建てただけでなく、過去に移民してきた人々そのものだったのです。1949年(私は老いぼれです)、まだ小学生だったとき、私たちはテキサス州のヒューストンに引っ越しました。私たちは定期的に教会に通い、私は12歳のときにパサデナで洗礼を受けました。私はティーンエージャーにして、他の教会にも通って彼らの教えと教義を学ぶことを望んでいました。バプティスト派、メソジソスト派、監督派、カリスマ派、ナザレ派、キリスト教会、神の教会、キリストにおける神の教会、純福音派、アガペ会、カトリック、長老派教会などを含め、多くの宗派について学びました。私はいわゆる「善き知らせ」とされた「福音」に対する渇望を身につけました。私は宗教に対する研究をキリスト教だけに留めませんでした。ヒンズー教、ユダヤ教、仏教、形而上学、ネイティブアメリカンの信仰はすべて、私の研究対象でした。私が手を付けなかったほぼ唯一のものが、イスラームだったのです。どうしてかって? 良い質問です。





ミュージシャンの牧師


いずれにせよ、私はゴスペルやクラシックを始め、様々なジャンルの音楽にも興味を持ち始めていました。私の家族全体が宗教的かつ音楽的だったので、私自身も双方の勉強を始めたのです。これらのことが、私が関わった多くの教会におけるミュージシャンの牧師としての立場を確立させることになりました。1960年には鍵盤楽器を教えだし、1963年には、メリーランド州ローレルに「エステス・ミュージック・スタジオ」を開設しました。





テキサス、オクラホマ、フロリダ州における事業


その後の30年間に渡り、私と父は多くの事業に携わりました。私たちはエンタメ番組、ショー、アトラクションを持ち、テキサス・オクラホマ地域からフロリダにかけて、ピアノ・オルガン店を開店しました。その期間、私たちは巨額の富を築きましたが、真理を知ること、本物の救済を見つけ出すことによる心の安寧というものとは全く無縁な生活を送っていました。あなたもこのような質問を自分にしたことがおありでしょう。「なぜ神は私を創ったのか?」「神が私に求めていることは何なのだろう?」「そもそも、神とは一体何者なのだ?」「なぜ私たちは『原罪』を信じるのか?」「なぜアダムの子が彼の『罪』を背負うことになり、永久の罰を受けなくてはならないのか?」…でも、もしあなたが誰かにこれらの質問をすれば、帰ってくる答えはおそらく「疑問に思うことなく信じれるようにならねばならない」や、「それは神秘であり、質問すべきことではない」といったものでしょう。彼らは言います。「兄弟よ、信仰を持つのです。」





三位一体説


奇妙なことに、「三位一体」という言葉はバイブルの中には存在しません。そしてこのことは、イエスが全能なる神の御許に召された200年後には、既に宗教学者たちにとっての頭痛の種だったのです。私は宣教師や牧師たちに、いかに「1」が「3」になるのか、また、いかに全能である神ご自身が、人の罪を赦すことが出来ず、わざわざ人間になって地上に降り、人として生きた上ですべての人々の罪を身に受けたりしなければならなかったのだろうかと問い質しました。その過程において、彼は全宇宙の神であり続け、お望み通りにすべての物事を支配し続けていたのです。こうした問いかけに対して、彼らは個人的な見解や奇妙な類推によってしか答えられなかったのです。





任命された無宗派牧師だった父


私の父は教会の活動、特に教会学校のサポートに非常に熱心でした。彼は1970年代に、牧師として任命されました。彼とその妻(私の継母)はテレビの福音伝道者や宣教者たちの多くと知り合いで、オーラル・ロバーツがオクラホマ州タルサに建てた「祈りの塔」の建設も援助しました。また彼らは、ジミー・スワガート、ジム/タミー・フェイ・ベーカー、ジェリー・フォールウェル、ジョン・ハギー、そして米国におけるイスラームの天敵パット・ロバートソンらの強力な後援者でもありました。





イエス「称賛」テープの配布


1980年代初頭、父とその妻は介護施設、病院、老人ホームへ寄贈する「称賛」テープの録音、そしてその無料配布の活動にとても熱心でした。私たちは毎日「主イエスのお心を勝ち取って」いたのです。





エジプト人男性との出会い


それは1991年の始めでした。父はエジプト人男性と事業を始めており、彼が私と会いたがっているということを伝えてきました。私たちの事業が国際色豊かになることは、私にとっても歓迎でした。ピラミッド、スフィンクス、ナイル川などのオリエントの情景が私をわくわくさせました。





彼は「モズレム」だった


ハイジャック犯、誘拐犯、爆破犯、テロリスト ― まだまだあるでしょう。彼が「モズレム」1であることを父が打ち明けたときの私の感想がそれでした。当初、「異教徒、ハイジャック犯、誘拐犯、爆破犯、テロリスト、不信仰者」との出会いを嫌悪しました。一般人であれば、誰であれそうした人物に会うことに対して反発するでしょう。私は自分の耳を疑いました。「モズレム? とんでもない!」と。私は父に、それらの人々について耳にする様々な不吉な話を言い聞かせました。





人々がでっち上げたムスリムとイスラームに対する虚偽


彼らは神様すら信じていないんだよ! 彼らは砂漠にある黒い箱を崇拝しているんだよ! そして彼らは1日に5回も地面にキスするんだよ! とんでもない! …私は彼とは絶対に会いたくありませんでした。この「モズレム」男性とだけは。それでも父は私が彼と会うように言い張り、彼が非常に親切な人物であることを強調しました。私にはそれを受け入れることが出来ませんでした。私たちが一緒に仕事で飛び回って協力し合っている福音伝道者たちは皆、彼らムスリムとイスラームをひどく嫌っていたのですから。彼らは人々にイスラームを怖れさせるため、事実とは異なることさえ吹聴していました。そのため、なぜ彼らと関わり合いにならなければいけないのかと思っていました。





「彼をキリスト教徒にしよう」という思いつき


しかし、こういう思いつきが浮かびました。「皆でこの男をキリスト教徒にしようじゃないか。」それで、条件付きでこの男性と会うことに合意しました。それはバイブル、十字架、そして「イエスは主である」というスローガンの書かれた帽子を被って彼と会うことでした。そして彼とは教会の日曜礼拝の後会うことにしました。私はいつも通り、腕にバイブルを抱えていました。さらには大きくキラキラな十字架を首に下げ、被っていた帽子の「イエスは主である」と書かれた部分をきちっと真正面に向けました。私の妻と二人の娘を従え、私たちは「モズレム」との初の対面を待ち構えました。





彼はどこに?


私が店に入り、どこに「モズレム」がいるのかと父に尋ねると、彼を指して言いました。「ここにちゃんといるじゃないか。」私は混乱しました。彼がモズレムであるはずがないと。とんでもない!





ターバンと髭は?


私は大柄で礼服を着し、頭に巨大なターバンを巻き、胸にまで届く髭を蓄え、そして額を横断する眉毛を生やし、爆弾を隠し持っている人物像を思い描いていました。





ターバンも髭も、頭髪さえも


この男性は髭を蓄えていませんでした。それどころか、彼の頭頂には髪の毛一本生えていませんでした。彼は、ほぼ丸禿でした。素晴らしいことに、彼は非常に愛想良く歓迎してくれ、彼とは暖かい握手を交わしたのです。私は思いました。これはおかしいぞ。彼らは爆弾を抱えたテロリストではなかったのか。これは何事か?





彼はイエスを求めている


まあ良いだろう。これなら簡単に取り込めるぞ。彼は「イエスの御名」において「救済」されなければならず、私と主はそれを達成するのだ、と私は決心しました。





自己紹介と尋問


簡単な自己紹介の後、私は彼に尋ねました。





「あなたは神を信じていますか?」





「ええ。」(よし。)





「あなたはアダムとイブを信じていますか?」





「ええ。」(いいじゃないか!)





「アブラハムについては? あなたは彼を信じ、彼がいかに自らの子を神のために犠牲に捧げようとしたかご存知ですか?」





「ええ。」(すごいぞ!)





私はさらに尋ねました。「モーゼについても? 十戒について、そして紅海を分断して渡ったことも?」





彼はまたも言いました。「ええ。」(こりゃいいぞ!)





「では、ダビデ、ソロモン、洗礼者ヨハネについても?」





「ええ。」(最高だ!)





こうも尋ねました。「バイブルを信じていますか?」





彼はさらに言ったのです。「ええ。」(よし!)





そして、遂にこの質問をするときが来たのです。「あなたはイエスを信じますか? 彼が神のメシアであるということも?」





そして彼は言ったのです。「ええ。」(ファンタスティックだ!)





これは私が思っていたよりも簡単に物事が進みそうだ。彼は洗礼の準備が出来ている。しかし、彼自身はそれに気付いていない。そして私こそが、それを施す者なのだ、と私は確信しました。





衝撃的な知識 ― ムスリムはバイブルを信じるのか


1991年春のある日、私はムスリムがバイブルを信じていることを知りました。そのことは衝撃的でした。どうしてそんなことがあり得るのか? それだけでなく、彼らはイエスについても次のようなことを信じていたのです。





·  真の神の使徒であること





·  神の預言者であること





· 人的介入のない奇跡を起こしたこと





· 彼がバイブルで予言された「キリスト」つまりメシアであること





·  彼が現在、神と共にあること





·  彼が終末の日に戻り、信仰者を率いて「偽キリスト」と戦うこと





毎日「イエスのために神へと魂を勝ち取った」あと、「モズレム」をキリスト教へと「改宗」させることが私にとっての大きな目標となりました。





一杯の紅茶 ― 信条の議論


 彼に紅茶は好きかと尋ねると、好きだと答えました。なので私たちはモールの一角にある小さな店に入り、私の得意分野である信条について語ることにしました。小さなコーヒー店に何時間も座って話していると(大部分は私が話していました)、私は彼が非常に好感の持てる、静かで、時には恥ずかしがり屋の様相も見せる男性であることに気付きました。彼は私の話に非常に注意深く耳を傾け、一度として話を遮ったりはしませんでした。私は彼の性格を気に入り、良いキリスト教徒になる可能性をひしひしと感じました。その時は、やがて私の目の前で起きることには到底思いもよりませんでしたが。





共同事業の合意


まず、私は彼と事業を行うことを父と合意しただけでなく、彼が私と一緒にテキサス州北部の出張の共をすること勧めました。私たちは毎日、車の中で人々の持つ異なる信条についての様々な論点を議論しました。道中ではもちろん、私の好きなラジオ局の宗教プログラムを、この可哀想な男のために流したりもしました。私たちは神の概念についても語りました。また人生の意味、創造の目的、諸使徒と彼らの使命、そしていかに神がその御意を人々に伝えるかについてもです。私たちはまた、多くの個人的な体験やアイデアについても共有しました。





我が家への引越し


ある日、私はムハンマドが家を引越して、彼の友人の元に世話になっており、モスクに一時的に滞在することになることを知りました。私は父のもとへ行き、ムハンマドが郊外にある私たちの大きな家に一緒に住むことが出来ないかどうか尋ねました。そうすれば私たちは一緒に仕事が出来るし、出費も補い合えるだけでなく、出張のときもすぐそこに居るからです。父は合意し、ムハンマドが越してきました。





牧師業と宣教の継続 


もちろん、私はテキサス州の宣教師や福音伝道者仲間と一緒に過ごす時間も作りました。彼らの内の一人は、テキサスとメキシコの国境付近に住んでおり、もう一人はオクラホマ州との州境付近に住んでいました。宣教師の中には、車よりも大きい、木製の巨大な十字架を担ぐことが趣味の者もいました。彼はその十字架の形をした二本の梁を肩に担ぎ、公道や高速道路でそれを引きずって歩きました。人々は車を止め、一体何事なのかと尋ねてきますが、その機会に彼はキリスト教に関するパンフレットや小冊子を彼らに渡すのです。





宣教師の心臓発作


ある日、その十字架好きの友人が心臓発作を起こし、退役軍人病院に長期入院しなければなりませんでした。私は週に数回彼を見舞いましたが、教義や宗教について分かち合うことを期待してムハンマドも同伴させました。友人はそのことに全く理解を示さず、彼がイスラームに対して心を閉ざしていることは明白でした。そしてある日、私たちが病室にいるとき、友人と同室の男性が車椅子で入室しました。私は彼に挨拶し、名前を尋ねましたが、彼の答えは「それは重要なことではない」で、どこの出身かを尋ねると「木星だ」と答えました。彼は何かの手違いで精神病棟から心臓病棟に紛れ込んでいたのではないかと思った程です。





主を求めていた車椅子の男


私は彼が本当は孤独で憂鬱なのだと悟りました。そのため、私は彼のために主についての「証人」となることにしました。私は彼に旧約聖書のヨナ書を読み、人々を正道に導くため、主によって遣わされた預言者ヨナの逸話を聞かせました。ヨナは人々から立ち去り、街から船で海へと逃げました。暴風が襲い、船が転覆しそうになると、乗船していた人々はヨナを放り出しました。そのときクジラが海面に浮かび上がり、ヨナを飲み込むと再び海底に沈み、ヨナはそこで3日3晩過ごします。しかし神のご慈悲により、クジラは海面に再び上がり、ヨナを吐き出し、彼はニネベの街に無事帰還するのです。ここでの教訓は、私たちは自分たちの行いを知ることによって、直面する問題からは逃げ出すことは出来ないということです。神も私たちの行いをすべてご存知なのです。





カトリックの牧師


車椅子の男性にこの逸話を紹介したとき、彼は私を見上げ、謝罪しました。彼は自分の無礼な態度に申し訳なく感じ、深刻な問題に直面していたことを私に告げました。それから彼は、ある事実を告白したいと告げてきました。私はカトリックの牧師ではないので懺悔は受け付けないと言いました。彼はそのことを知っていると言いました。事実、彼はこう言ったのです。「私はカトリックの牧師なのです。」





私は愕然としました。私は牧師にキリスト教を説いていたのです。一体ここで何が起きているのか?





ラテンアメリカの牧師


牧師は12年間に渡って中南米やメキシコ、またニューヨークのヘルズ・キッチンで伝道師として働いていたことを話し始めました。彼は退院後に保養する所が必要だったので、カトリックの家庭と共に過ごさせるよりは、郊外の私たちの家でムハンマドも交えて過ごすことを父に提案しました。父は全面的に賛成したため、彼はすぐに越してきました。





牧師はイスラームを学ぶべきか?


我が家への帰路、私は牧師とイスラームの信条の一部について話しましたが、驚くべきことに彼はそれについて同意し、自分から多くを語りだしたのです。彼はカトリックの牧師たちが実際にイスラームを学び、博士号を持つ者たちも少なからずいると言いました。私はそれらのことに驚愕し、とても啓発されました。そして更に物事は進行するのです。





バイブルの派生版


しばらくして落ち着くと、私たちは毎晩夕食後に宗教について論議しました。父はジェームズ王版のバイブル、私は改訂標準訳、そして妻はさらに別版のバイブルを持ち出しました(それはおそらくジミー・スワガートの「近代人への吉報」だったでしょう)。もちろん、牧師はカトリックのバイブルを持っており、それはプロテスタントのものよりも7巻多い物でした。そして私たちは、ムハンマドを説得して改宗させることよりも、どのバイブルが正統かつ正しいものかという議論の方により多くの時間を費やしていました。





唯一の版本しか存在しないクルアーン


ある時点で、私は過去1400年間においてクルアーンの版本がどれ程出たのかと尋ねたことを覚えています。彼はクルアーンには唯一つの版本しかないこと、それが一度足りとも変更されていないことを私に告げました。さらに、クルアーンは常に何十万人もの人々によって丸暗記されており、世界中の国々に広まっているということもです。クルアーンは啓示されて以来、何百万人もの人々が、表表紙から裏表紙まで、一文字足りとも間違いのないよう完全に暗記していると言うのです。現在では、900万人以上のムスリムたちが全クルアーンを暗記しているのです。





そんなことがあり得るのか?


私にとって、そのことは不可能であると思えました。バイブル本来の言語は、数世紀にわたり言語学的に「死語」となっており、原文そのものも数千年に渡って失われてしまっています。なので、そのようなものが容易に保持され、丸ごと暗唱されるのかがどうしても分かりませんでした。





牧師によるモスク訪問


いずれにせよ、ある日牧師はムハンマドにモスクの様子を見せてくれるよう頼みました。彼らが帰ってくると、そこでの体験について語り合っており、私はそこでどのような儀式が執り行なわれていたのかについて聞くのが待ちきれませんでした。彼は、そこでは殆ど何も行われず、彼らがそこに着くと、ただ祈りを捧げて帰ってきたというのです。私は言いました。説法や賛美歌もなしに、ただ帰ってきた? 彼はそうだと言いました。





牧師によるイスラーム入信


それから数日が経つと、カトリック牧師はまたモスクに行けないかとムハンマドに頼みました。ただ、そのときは前回とは違いました。彼らは長時間に渡ってもどってこなかったのです。辺りは暗くなり、私は彼らの身に何か起きたのではないかと心配になりました。ようやく彼らが帰宅すると、ムハンマドがいたのはすぐに分かりましたが、その側にいる人物を認識するのに少し時間がかかりました。その人物は白い長衣をまとい、白い帽子を被っていました。待てよ?それは牧師だったのです。私は彼に言いました。





ピート…? 君は「モズレム」になったのかい?





彼は正にその日、イスラームに入信したと言ったのです。牧師がムスリムになったのです! 一体、次は何が起こるというのか?(もうすぐ分かります。)





妻によるイスラーム入信宣言!


それから、私は二階に上がり、この事態について改めて考え直すため、妻に相談しました。すると彼女は、それが真理であると確信しているため、彼女自身もイスラームに入信することにしたと言い始めたのです。





ショック!


そのとき、私は本当にショックを受けました。私は一階に降り、ムハンマドを起こし、話があるから外に出ようと切り出しました。私たちは散歩がてら、一晩中話し合いました。





真理は訪れた!


彼がファジュル(早朝の礼拝)の祈りの準備を始め出す頃になると、私は遂に真理が到達したことを悟り、やらねばならないことをやると決心しました。私は父の家の裏手へ行き、古いベニヤ板が転がっているのを見つけると、そこにムスリムたちが一日5回の礼拝をしている方角へと向けて私は額ずいたのです。





神よ!私にお導きを!


ベニヤ板の上に膝まずき、地に頭を付けたその状態で、私は言いました。「神よ、もしあなたがそこにいらっしゃるのであれば、私にお導きを。私にお導きを。」





私の中のしるし


しばらくして頭を上げると、私は何かに気付きました。いえ、別に空から鳥や天使たちが舞い降りてくるのを見た訳ではなく、声や音楽が聞こえてきたのでもなく、明るい光や煌きが見えたわけでもありません。私が気付いたのは、自分自身の中の変化です。私はそのとき、これ以上嘘をつき続けること、卑怯なことを止めなければならないということをこれまでになく自覚したのです。誠実で素直な人間になる努力を始めるべき時が来たのです。そのとき、私は何をしなければならないのか分かりました。





「古いもの」を洗い流す


それから二階ヘ上がり、時間の経過と共に成り果ててしまった罪深い人物像を洗い流す気持ちを持ちつつ、シャワーを浴びました。そして私は新しく清らかな人生を始めようとしていました。その人生は、真実と根拠の上に成り立ったものです。





そして新たな段階へ


その日の朝11時頃、私は元牧師のピーター・ジェイコブスとムハンマド・アブドッラフマーンを二人の証人として「シャハーダ」(神の唯一性と、ムハンマド〔神の慈悲と祝福あれ〕の預言者性を証言すること)をしました。





「私は唯一にして同位者なき全能なる神以外に崇拝されるべき神はなく、ムハンマドがかれの使徒でありしもべであると証言します。」





私の妻も


その数分後、私の妻も続いて同じ証言をしましたが、彼女には3人の証人がいました(私が加わったからです)。





私の父も


私の父はこの件に関して多少保守的な態度を示しましたが、数ヵ月後にはシャハーダをしました。彼は最終的には私と共にイスラームに献身し、地域のマスジド(モスク)で他のムスリムたちと共に礼拝を捧げるようになりました。





私の子供たちも!


子供たちはクリスチャン学校からムスリム学校に転校しました。そして10年後の今、彼らはイスラームの教えに熟知し、クルアーンの多くの部分を暗記しています。





父の妻(継母)も


私の父の妻も、彼女が亡くなる前に、イエスが神でも神の子などではなく、彼が神の預言者であることを認めました。彼女はそのことを述べた数ヵ月後、86歳で亡くなりました。神が彼女の信仰証言をお認めになりますよう、アーミン。





家中に新ムスリムたちが…次は?


では、ここで一旦考えてみてください。出自や民族の異なる一家全員が団結して真実に到達し、宇宙の創造主を知り、その崇拝の方法を学んでいる光景を。どうでしょう。カトリック牧師、ミュージシャン牧師/福音伝道者、任命牧師/キリスト教学校設立者、そして子供たちや曽祖母 ― 彼らはみなイスラームに入信したのです。





かれの慈悲と導き


神のご慈悲のみによって、私たちの耳と目を覆っていたもの、そして心を塞いでいたものが取り除かれ、イスラームという本物の真理に導かれたのです。





これが、私がいかにイスラームを見つけ、ムスリムになったかという改宗記です。この改宗記についてはインターネット上から追加分や写真などを見つけ出すことが出来ます。ぜひそれらを観覧して私にメールを送ってください。そして証拠に基づいた真理を共有し、私たちの現世と来世おける起源と目的を発見しようではありませんか。





私が改宗記を書き、インターネット上に公開するようになってから、多くの他のサイトがそれを取り上げ、「牧師・宣教師がいかにイスラームを発見したか」という有名な例になってしまいました。





そして、あなたがここに訪問してくれたことに感謝します。キリスト教徒の友人のメールにも感謝しています。もし彼がそれを送らなかったら、おそらく未だに私の家族、友人、そして私自身がいかにイスラームを見出したかというこの話を書き留められずにいたでしょうから。





ぜひこの逸話を友人の方々と共有してくれたらと思います。プリントして配ってみるのも良いかも知れません。ご存知の方々にこのリンクを貼ったり、この逸話についてホームページやブログなどで紹介してくれると幸いです。神がお望みであれば、ひょっとすると、私たちがそうだったように、人々の人生に変化をもたらすかもしれません。





神があなたの旅に真理をもたらしますように。アーミン。そして神が現世の真実と目的についてあなたを開眼させますように。アーミン。





あなたに唯一なる全能の神からの平安と導きあれ。かれこそは、あらゆる存在を創造し、それを維持する御方なのです。



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